【濱屋郁生さん】

雑居まつりは、1976年にはじまりました。雑居まつりをつくった人たち、立ち上げに関わった人に話を聞きました。(「雑居まつり40年のメッセージ」に収録)

濱屋郁生さん

(自分は)まだ20歳。宮前さんも20歳過ぎだった。沢畑さんは現役。だから(若い)宮前さんと俺なんかが実際区役所行ったり一緒に動いていたんだと。足になってね。あの頃は相当車いすで走り回ったからね。

昭和49年5月18日だったと思います。代田区民センターで5・18集会というのをやったんですね。友人に誘われて行ったんですけれども、ハンディを持つ人持たない人共に生きようということをテーマにした集会だったと思います。

その時沢畑さんや碓井さん宮前さんと出会った。私はまだ20歳そこそこで、今後の学生生活とか大学を終えてからの就職をどうしようかと少し考え始めた時期でした。

この集会に参加して初めて、いろんな障がい者と出会って、この活動に参加していくことで何か見えてくるんじゃないかなと思ったんです。それから授業がない時はよく宮前さんが住んでいた 下馬に行って役所に出かけたり、いろんなとこに一緒に行きました。2人ともまだ若かったので、世田谷は意外と坂道の多い所ですから車椅子で坂道を後ろのステップに両足乗っけて走り回ったり、そんな記憶があります。

それから世V連の活動をしながら(光明)養護学校を卒業した子どものお母さんたちがはじめた「知恵遅れを持つ親の会」という会で、「自分の子どもたちの仕事の場をつくろう」という活動も一緒にやりました。

「こういう子どもを持って不幸だ」という親もいれば「自分の人生を考えさせられた」という親もいて、次の未来につながるものとして(子ども達の)作業所作りを懸命にやりました。それが親の会の活動として実ったのが、私が卒業する昭和51年だったと思います。今は区の施設になった白梅福祉作業所です。

昔店だったところを借り受けて住み込んで、作業所の運営に参加しました。夜はアルバイトしながら、昼間は作業所の子どもたちと洗濯バサミの紐がけなんかの作業(物干し竿にぶら下げる紐をとりつける)を一緒にやった。

世V連とかお母さんたちの作業所作りとか、世田谷で動いたことが、いろんなところに波及していったと聞いています。世V連としては日本テレビの24時間チャリティー番組の第1回目にも関わりました。

私は雑居まつりから、あの当時の仲間と一緒に仕掛けてきた方ですけれども、(自分が去った)その後、いろいろ人がつながって(雑居まつりを)大きなイベントにしてきているんだってことはホント嬉しいですよ。

なぜ雑居まつりが今に至ったかということですけど、世田谷っていうのはいろんな地方からいろんな人が、仕事を求めたりとか学生生活を送るために住んでる方が多いと思います。

いろんな人が住んでる。いろんな希望や夢を持って、人それぞれいろんな生活をしている。そういう人たちに対して、自分たちの活動を通して新たな出会いを求めていこうという思いでおまつりってものを企画した。

テレビ番組で「雑居時代」って番組があったはずなんです。それが名前をつけるきっかけになった。世田谷っていうのはいろんな人たちが「雑居」の状態、バラバラに生活してるんだけども、一人ひとりは何かふれあいを求めてるんだと、そういう出会いの場にしようと。

でまず自分たちが「共に生きる」ということをテーマにして、ハンディを持つ人も持たない人も一緒に生活できるまちづくりをしようじゃないかと、まず発信しましょうと。そうすれば自分みたいな思いを持った人がまた参加するかもしれない。

雑居まつりは今ではそういう原発の問題や、水俣の問題や、いろんな問題をテーマにした人たちが一緒に集まって、人それぞれの問題じゃないんだと、みんなで一緒に考えていく問題だということで集まっているはずなんですよね。

今私がテーマにしているのは福島原発の事故の問題だとか、残土産廃の問題ですが、ほとんどは東京や神奈川の廃棄物が(自分が住んでいる)房総に持ってこられちゃうわけですよ。じゃあ逆に我々はそれを都市住民にアピールしたい。

だから(この)おまつりは一発花火じゃない。障がい者の問題だとか、原発の問題だとかいろんなものをテーマにしてこのおまつりは構成されているわけだけれども、それをみた人がまつりをきっかけにしてそういうことを自分たちの生活の中に持って帰って、また生活の場でそれを考えていく。

そういうきっかけ作りを雑居まつりは担っているんだっていうことですよ、今。