【天野房子さん】

雑居まつりは、1976年にはじまりました。雑居まつりをつくった人たち、立ち上げに関わった人に話を聞きました。(「雑居まつり40年のメッセージ」に収録)

天野房子さん

私がボランティアに関わり始めたのは社会福祉の学校を卒業して何かやりたいということだったんですが、
ボランティアっていうと「なんですかそれ」。ボランティアっていう言葉が全く通じなかった時代です。

ボランティアという言葉が通じるようになったのは昭和39年のオリンピックの頃から。まぁ少なくとも昭和30年以降ですよね。ボランティアなんてなかったんです。ようするに篤志家とか、お金持ちが恵んであげるような、そういう感覚。ボランティアなんて日本語じゃない言葉は通じませんでした。

(雑居まつりの)創成期に関わらせていただいたのが、とってもありがたかったですね。私も学校卒業して、だけど特にまだ何かしようって所に至っていなかったですから。何かしよう、何かしようと。だけどまだ決まっていないっていう時。代田区民センターに集まった頃はまだほんとに何人も集まっていなかった。場所の選定からしてどこにしようかっていうことから始まって。記憶に残っているのは(第1回目の雑居まつりで)前の日まで雨が降っていたのが翌日お天気になった、あの時の嬉しさ。

(雑居まつりとは)

実はあたし福祉の仕事を希望したのは、昭和29年の時に、妊娠中で、御茶ノ水の病院から診察してもらって、すぐ帰ればよかったんですけれども、うちの母が脳梗塞で倒れちゃったんです。

(母が寝ている)3階から下まで便器をいちいち下ろしたり何かしていたので、そしたらば世田谷まで帰ってこようとした電車の中で産気づいちゃって、お腹がものすごく痛くなっちゃって、また病院戻ったんです。

人間て急に生まれるとカエルの子みたいに皮がないんです。骨はあるんです。皮が整ってなかったんです。
それで死んじゃったんです。

すごいショック受けちゃって。親としての自分が悪いって。ですから社会福祉の学校へ行こうと。そんなことがなければ社会福祉なんて考えなかったですね。順調にいってたら知らなかった、社会福祉ということを。

雑居まつりは、そこだけが特殊な世界じゃないってことを教えてもらったところです。

人間は差別をする。あそこにいる人たちはああいう人、私たちは違う。それをそういう差別を考えさせないで
みんな一緒に生活するんだ、
みんな一緒に生きてるんだと
そういう感覚を教えてくれた所です。

(40年続くって想像できましたか)
いえ想像はまったくつきません。
(雑居)をずっと若い人たちが引き次いでいるっていうのはそれは素晴らしいと思う。

(今の雑居まつりは)ずいぶん範囲が広がってきたなぁという感じですね。

輪の会なんてあたし、気付かなくってさ、耳が聞こえないなんていうのはさぁ、そんな大したことないなんて思っていたけど、とんでもないのねえ。

やっぱりねえ、聞こえないっていう事は意思が通じないでしょう。自分がもう80過ぎてみると、ああ、あの時一生懸命活動してたことがとっても楽しかったなぁと振り返ってみるとしみじみ思います。

自分の体が自由が利かなくなってきていますでしょ。今こうやってお話ししていても、私にとっては雲をつかむような話。見えないんです要するに。ぼーっとして、メガネをこうやろうとこうやろうと変わらず、もう目がほとんど見えなくなってきてますから。それと手の震えと、ものを掴むって事も厳しくなってきているから、これが老化なんだと思うんだよね、年齢からいって。

88になるとどうなるんですかって聞こうと思ったら自分の周りに88なんて人が1人もいなかった。私の母もおばあちゃんもみんな80の時には死んでいましたから。

誰もいないんです。
だからすごく心細いっていう思いがあります。ものがきちっと見えない、それはすごく寂しいです。

だからあなたたちに言いたいのは、若いときには一瞬一瞬を大事にしなさいね。自分では大事にしているつもりでもやっぱりほんとに一瞬ですからね。ほんとにそう思います。

人間て絶対にさぁ、元来た道へ戻れないでしょ。

だからほんとにその一瞬、人との触れ合いも一瞬一瞬を大事になさってほしいと思いますね。

昔はボランティアっていうのは貧しい人に手を差し伸べようという感じで、そういうのがスタートで始まったんだけれども、要するに恵んであげようっていう発想から始まったんだけれども、ほとんどの人がそうだったんだろうけれども、今はもう環境(問題)とか色んな問題、すべて含むようになりましたでしょ。

だからそういう点では、これからもどんどんそういう輪が広がっていくんだろうと思いますね。

今の私には考えられないようないろんな輪が、私が死んでからももっともっと増えていくんでしょう。