このまちでくらす
雑居まつりが始まる少し前、障がいを持った人たちがようやく「まち」に出始めました。
しかし、電車を利用する際、駅にはエレベーターが設置されていなかったため、必ず階段を昇り降りしなければなりませんでした。まだ電動の車いすはなく、介助者がひとりでもなんとか上げ下ろしはできたのですが、安全を考慮し、通行している人に協力してもらえるよう声をかけました。なかなか、立ち止まってくれる人は少なかったのですが、「アベック」に声をかけるとみごとに成功しました。たっぷりと時間がある、カッコつけたいから断れない、という理由です。そして、女性にみんなの荷物を持ってもらえるという利点までありました。
また、トイレに困りました。車いすで入れるトイレがありません。人によっては3日前から水分調整をして、トイレに行かなくていいように体調を整えて外出している人もいました。
そんな経験から、「世田谷福祉マップをつくる会」、「世田谷ハンディキャブ運営委員会」、「世田谷てまねを学ぶ会」などが誕生しました。そして、そんな活動を展開していく中で、さまざまな障がい児(者)団体との交流が始まりました。
それぞれの団体がいろいろな悩みを抱えていることを知りました。身体障がいの団体は、「身体が動く人はいいね。」と言います。知的障がいの団体は、「頭がしっかりしていていいね。」と言います。そして、どの団体もボランティア集めに苦労していました。活動資金集めに苦労していました。
いろいろな人が集い語り合う場があれば、もっとお互い助け合うことができる。もっと気軽にまちに出ることができる。もっと日常生活が豊かになるのではないかという思いが実り、「雑居まつり」が誕生しました。
当時の「まちづくり」は、行政に要求し改善させることがあたりまえでした。そのような社会状況の中で、いろいろな人が「出会い、ふれあい、語り合い」を重ねる中で、自分たちの抱えている問題を当事者たちとともに提言し解決していくという「まちづくり」が始まりました。そんな画期的な住民運動の形が、世田谷から発信することで全国へ広がっていきました。「雑居まつり」、「プレーパーク」、「自主保育」がその典型です。
そして、全国ボランティア研究集会において、世田谷の活動について事例報告を行ないました。それをきっかけに「雑居まつり」の精神を大切にしたおまつりが全国に波及していきました。
しかし、数年後、ほとんどのおまつりが消滅していました。その理由は2つです。ひとつは、行政の財政的、人的援助がすこしずつ増え、運営し続けることの大変さから、実行委員会主催から行政主催に移行してしまったということでした。もうひとつは、イデオロギーの問題です。いろいろな団体が、自分たちの主張をする。向いている方向が違えば、お互いを批判し論争となり決裂してしまう。結果として開催が困難になったそうです。
「雑居まつり」は、ひとりひとりが主体的に関わることにより、みんなで創り上げる大切さを共有してきました。そして、それぞれの団体にさまざまな主義・主張がありますが、すべての団体を尊重し、すべての団体が責任を持って参加することを大切にしてきました。雑居まつり自体がテーマを持たないということも重要なポイントでした。
世田谷のボランティアと福祉の発展は、こうして脈々と続いています。
実行委員会を構成しているひとりひとりが、主体的に企画・運営しているという自覚を持ち続けること、そして、自分たちの思いを常に発信することが「雑居まつり」なのです。